俺は粗末な椅子から立つと、微かに痛む腰を擦りながら辺りを見回した。どことなく猥雑な、それでいてそれなりに広い部屋には、俺と智恵花の机が備え付けられており、それに加えて壁一面にサーバラックが設置されていた。このラックにはネットワークサーバの他にも、機械学習用のニューラルコンピュータや各種実験用のコンピュータが収納されており、俺と智恵花が利用している。
これらのコンピュータは多大な電力を消費し、しかもその動作を安定させるために空調をきかせているので、総じてかなりの電気を喰う。そのため、この部屋は箱根学校の敷地の外れにある研究棟にある。箱根学校の主な建物である教育棟に、こんな電気を喰う部屋があったら、一瞬でブレーカーが落ちてしまうからだ。
この部屋の室温は空調により摂氏二十二度に保たれているが、外はどうだろう。恐らくそれより気温は低いと思う。俺は部屋の窓から外を眺めた。窓の外では、すっかり山の木々が紅く染まっている。空は果てしなく高く、冬の息吹さえ少しずつ感じられる。寒さの苦手な智恵花がここにいたら、恐らくこれから訪れる冬について色々と文句を言うに違いない。
そうか。あの核攻撃から三か月以上、四か月ほど経ってしまったのか。つまり、上官である文月智恵花中尉と出会ってから、そのぐらいの時間が経ったわけだ。不思議なものだ。智恵花とはずっと前から一緒に行動をしている気がする。
核攻撃があった日、俺は、ある研究所の実験室に閉じ込められ難を逃れた。智恵花も同じように難を逃れ、俺とともに行動をするようになった。あの攻撃で俺たちの仲間、そして俺たちの街が消し飛んでしまった。しかし、人類は偉大だ。生き残った人々が力を合わせ、自分たちの街を、世界を取り戻そうと懸命になっている。そして、少しずつ世界が癒されるにつれ、意外と多くのものが残っており、まだまだ俺たち人類はやって行けそうだと言う話が、あちらこちらから聞こえてくるようになった。
俺と智恵花それに多くの仲間は、この俺たちの世界を少しでも元に戻すため、情報軍をはじめ様々な通信ネットワークの復旧作業を行っている。この部屋は、その最前線でもあるのだ。しかし、俺たちが仕事を進めていると、なぜか奇妙な事件に巻き込まれてしまう。その事件のせいで俺たちは何度も危険な目に遭い、そしてあの核攻撃の裏側、と言うか実態について色々な情報に触れてしまうことになってしまった。あの攻撃はどうやら、偶発的な事故ではなく、ある特定の思想を持ったグループによって引き起こされたらしい。それについての噂も宇宙人が攻めてきたという荒唐無稽なものから、人工知能の反乱だというものまであり…
そんなことを考えていると、建て付けのあまり良くないドアが音を立てて開いた。ドアが開いた瞬間に流れ込んでくる、微かに甘くさわやかな香り。智恵花だ。
「もー、聞いてよ准尉!」智恵花が、真っ白な頬を微かに赤く染め、しかも大きく膨らませながら部屋に入ってきた。そして、手にしていた小さなブリーフケースを自分の机に置くと、そのままの表情で俺に詰め寄る。彼女の背は俺よりだいぶ低く、背を伸ばして俺を見上げる。しかし不思議だ。智恵花は一見地味そうに見えるのに、傍で見つめると女の子特有のきらきらしたものが見える。まるで銀の鱗粉を放っているかのように。
「聞いてる、如月准尉!?」何かに怒る智恵花が、大きな猫のような耳を小刻みに震わせながら、その藍色にも見える大きな瞳で俺を覗き込んだ。彼女は義体化兵だ。だが、身体のほとんどは改造されておらず、この愛くるしい顔は生来のもの。それなのに、あまりにも肌理が細かい白い肌で、思わず見入ってしまう。
「准尉?」智恵花は俺が返事をしないことに幾ばくかの不安を覚えたのか、耳を垂れ下げ不安そうに見つめてくる。
「ああ、すみません。ぼうっとしていました。どうしました?」俺は慌てて、胸の高鳴りを何とか沈めて応えた。
「ん。そう? そうそう! あの、狸娘がひどいのっ!」智恵花はそう言うと、髪を振り乱しながら首を何度も横に振る。めちゃくちゃ少女っぽいが、これでも情報軍中尉。そう、俺の上司だ。
「狸娘…、ああ卯月ですか。彼女がどうかしましたか?」俺はやや呆れながら訊ねる。
卯月は、先日俺たちの仲間になった人工知能を搭載した義体だ。智恵花のような義体化兵は、基本的には最低でも大脳を義体に格納している。だが卯月は義体を利用しているものの、頭に収まっているのは実験タイプの新しい人工知能搭載コンピュータだ。つまり、生体由来の部品は義体の一部に使用されているものの、ほぼすべてが人工物。いわばロボットだ。
ちなみに、卯月はふくよかな体つきをしており、どことなく狸を思わせるような耳と尻尾を持っている。そのため、卯月のことをあまり快く思っていない智恵花は、彼女のことを狸娘呼ばわりするのだ。
「そう、卯月が仕事をしてくれないの! 私が仕事を頼んでいるのに、それをすっぽかされるのよ。あの子がここに来たばかりの頃は、それなりにきちんと仕事をしてくれたのよ? でも最近はさっぱり!」智恵花はそう一気に言うと、悔しそうに桜色の爪を噛み締めた。智恵花の良くない癖だ。
くろねこ小隊シリーズの第5話です。いよいよ今回で第一部が完結します。朧気ながらも見えてきた、あの核攻撃の首謀者たち。第二部では、解決に向けて物語が展開します。