やさしい博士と狐耳衛生兵1:「モノクロームの春へ」

 春は、まだ来ない。つい先日も、そんな話をしたような気がする。今年の冬は例年に比べて厳しかった。珍しく大雪が降り、うちのボロ研究室の水道管が凍りさえした。

 春はまだ来ないが、それでも冬は終わりを迎えつつある。少しずつ日は伸び、ほんのわずかだが寒さも和らいできているように思う。もっとも、あの寒がりな助手は、このことを認めようとはしないだろうけど。

 この研究室は、とある地方国立大学の敷地の外れにある。そのため来客はほとんどないし、たまに学生が試験やレポートの提出に向けて質問に来るぐらいだ。これが学部生や院生をたくさん抱える研究室なら、それこそ毎日誰かがやって来ることだろう。だが、僕は学生を受け入れるような身分ではない。あくまでも、国の予算で細々と研究をしているだけだ。

「霜見月先生、コーヒーが入りました」眼鏡をかけた少女と言っていいほどの若い女性が、その長い黒髪をかきあげながら、僕の手元にマグカップを置いた。いささか子供っぽい感じのするマグカップ。これは、眼の前の少女が僕のために選んでくれたものだ。

「どうしました、先生?」眼の前の少女、『卯月かなえ』が柔らかに微笑む。やや癖のある長い髪が、彼女の真っ白な頬を少しだけくすぐる。卯月はその蠱惑的な瞳で僕の顔を不思議そうに覗き込むと、頭の上にある大きな黄金色の狐のような耳を動かした。  そう、彼女は正確な意味での人間ではない。人ではあるが、身体の一部を機械的手段で置き換えた義体化人なのだ。その証拠に狐のような耳のほかに、同じく狐のような豊かな毛をたたえる尻尾を持っている。

「ああ、悪い。いただくね」 「はい、どうぞ。先生はブラックでいいんですよね?」

 僕は頷くとカップを受け取り、やや濃いコーヒーをそっと口へと運んだ。

 うん、うまい。できれば甘みも欲しいけれど、糖質を控えている僕にとっては仕方のない選択だ。卯月のいれてくれたコーヒーは、そんな味気なさをすべて追い払ってしまうほど、素晴らしい香りをしている。

 卯月は、ただの義体化人ではない。義体化された者の多くがそうであるように、彼女も我が国の軍隊に所属している兵士なのだ。だから義体化兵と呼ばれることが多い。卯月は情報軍衛生部隊所属の曹長、いわゆる衛生兵だ。卯月の本来の任務は、彼女と同じく義体化手術を受けた兵士たちを戦場で治療することだ。だが、我が国が戦場へ出向くことはそんなにないし、そもそも情報軍が前線へと出兵することは、まずない。一応、陸戦隊を所持するものの、派兵されたことなんてなかったはずだ。

 そんな組織なのになぜ、衛生部隊があるのか。そう思う人も多い。だが、やはり将来的に戦場へ義体化兵が次々と投入された場合、その治療や修理の経験を積んだ人物は絶対に必要になる。我が国の義体化兵の大半は情報軍に属するが、近年は陸海空軍に着実に隊員は増えている。

 義体化兵向けの衛生兵は戦時には必要な人材なのだが、今は平時。とくに仕事もないので、こうして僕のような義体化技術について研究をしている研究者に助手として出向していたりする。とは言っても、軍人は軍人。略式ではあるが、制服を着てこの研究所に勤めている。卯月は今日も、黒いスカートに白いシャツ、それに印象的なえんじ色のネクタイを締めていた。そう、これが略式の制服だ。

「いやあ、うまいな」僕はコーヒーの香りを鼻腔いっぱいに吸い込むと、机の上に広がった論文の写しが視界に入らないように視線をずらした。こいつはつい先日、無理やりに査読を頼まれた論文だ。学術論文は、学術雑誌に掲載する前に著者以外の研究者が審査をする。これを査読すると言うのだが、今、目の前にある論文は恐ろしいほど稚拙な出来で、最初の概要を読んだ時点でもう嫌気がさしているのだ。

「あ、先生。また査読をされているんですね?」僕の目の前の椅子に腰かけた卯月が、興味深そうにちらちらと散らばった論文を眺める。

「やめてくれ」

「あ、ごめんなさい! 出版前の論文を関係者以外が読んでは、まずいですよね?」卯月が、しゅんと耳を垂れ下げる。

「いやいや、そうじゃないよ。この論文、出来が酷いんだ。だから、しばらく読みたくはないし触りたくもない…」俺はそう言うと、論文をまとめキャビネットの中へと放り込んだ。このキャビネットには、未処理の仕事に関する書類が放り込まれているのだが、そろそろ満杯になってきている。

「あ、そうなんですか…」卯月はそう言うと、ははは、と乾いた笑いを浮かべた。僕はそんな彼女の姿を一瞥しカップを置き、ぐるりと自分たちのいる部屋を見回した。国立大学特有の、何度も補修を行なった見た目はまあまあ綺麗だけど、実はボロボロな部屋。水道の出は悪いし、空調もあまり効かない。あまりにも空調が弱いので、この季節は勝手に持ち込んだ私物のストーブが大活躍だ。

 この部屋では、おもに事務仕事を行なう。こうやって論文を読んだり、逆に自分の研究を論文にまとめたり。それだけじゃない、備品の購入などにあたって膨大な訳の分からない書類を書いたりもする。そして、隣にある部屋は実験室。そこで様々な機材を組み立てたり、その測定実験を行なう。

 僕の専門は、義体の経年変化の調査とその治療および修理法の開発だ。卯月のような義体化兵が生まれてから、二十年以上が経つ。そろそろ身体のあちこちに不調を抱えた義体化兵が出始め、治療や修理をしなければならないケースが増えてきた。その効率的な治療や修理の方法について研究をしている。

 新しい義体の開発についての研究には膨大な予算が割り当てられ、それこそ数十人から数百人態勢で大掛かりなプロジェクトが組まれている。だが、僕のやっているようなテーマは人気がなく、良くて数人程度のチーム、場合によっては僕のように一人で研究を進めることが多い。

 あ、いや一人ではないな。僕はこの、卯月かなえと言う素晴らしい助手と二人三脚で、彼女のような人々を治す研究をしているのだ。

「いぬみみ小隊シリーズ」から始まる、一連の「みみっこ小隊シリーズ」の番外編第一話です。他のシリーズをお読みになっていなくても楽しめるような作品です。本シリーズでは、義体化技術を取り扱うSF的な要素と、義体と言う存在によって巻き起こるドラマを描いていこうと思います。